多目的広場に設置 平和を願う市民の思いが結実

1941年2月、日中戦争のさなか、中国湖北省牛頭山で捕獲されたヒョウの赤ちゃんは、第8中隊で飼われたことで「ハチ」と命名され、過酷な戦場での隊員に和みやすらぎを与えていた。

その後ハチは、上野動物園に送られていたが、戦況の悪化から1943年8月に猛獣の殺害命令で殺された。

2年6か月の命であった。

その後復員してきた育ての親の成岡正久さんが悲しみの中で上野動物園からはく製を譲り受け、曲折後、現在は高知みらい科学館で展示されている。

戦後80年の節目の年に「はく製のハチが1頭だけでは寂しいし忍びない、銅像にしてでも育ての親の兵士と一緒にしてあげたい」という市民団体のハチの像を建てる会(会長田村千賀)の願いが「ハチと兵士」の像として実現した。

ハチの命日の前日の8月17日に像の除幕式が行われ、命の大切さや平和を希求する「ハチと兵士」の完成を祝った。

土佐女子中学高等学校コーラス部による「南国土佐を後にして」の歌声が参加者の心にしみわたった。

この歌は、鯨部隊が望郷の思いを込めて口ずさんでいた「南国節」を戦後、武政英策さんが採譜編曲したもので、昭和30年代にペギー葉山さんが歌うと大ヒット曲となったものです。

来賓の桑名高知市長、西森県副知事の「ハチと兵士の像は、未来にわたって平和を願うシンボルになり、多くの方々に親しまれる像になる。」と、エールを送られた。

忠犬ハチ公の渋谷区長からは、高知市と結んだ観光文化交流協定の進化を促進したいとするメッセージが披露された。

子供たちの代表も加わっての除幕は、上町よさこい鳴子連の像を囲んでの乱舞で大きな盛り上がりを見せた。

今後、この像の台座に刻まれた成岡さんの反戦の思いや、ハチの生い立ちは多言語されてQRコードで読み込むことができるようになる。

「ハチと兵士」の像が目印となり、出会いの場所、交流の場所になることをハチの像を建てる会では願っている。

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